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東京高等裁判所 平成9年(う)1187号 判決

主文

本件控訴を棄却する。

理由

一  本件控訴の趣意は、弁護人及び被告人作成の各控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官増田暢也作成の答弁書に、それぞれ記載されたとおりであるから、これを引用する。

論旨は、被告人は自己を表象するものとして「甲田二郎」という氏名を使用し、本件各文書を作成したのであるから、私文書偽造罪、同行使罪が成立しないのに、その成立を認めた原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認及び法令適用の誤りがある、というのである。

そこで原審記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調べの結果をも併せて検討する。

二  関係証拠によれば、次の事実が認められる。

(1) 被告人は、昭和六三年一〇月ころから、宗教法人オウム真理教に入信してその活動をしていた者であるが、平成七年五月、東京都杉並区〈以下省略〉のマンションで発生した爆発物取締罰則違反事件に関与した嫌疑で指名手配を受け、いわゆる地下鉄サリン事件等の容疑で特別指名手配を受けていた他の信者らとともに埼玉県所沢市〈以下住所省略〉に潜伏中、一同の生活費等に窮したところから、特別指名手配でないため街頭等に顔写真等が張り出されることのなかった自分が「甲田二郎」の偽名で就職して一同の生活費等に充てようと考え、同年八月上旬ころ、求人情報誌に掲載されていた北海道阿寒郡の株式会社Aホテルの求人広告を見てこれに応募することとし、東京都内で履歴書用紙と「甲田」と刻した印鑑を購入した上、同月一〇日ころ、右〈住所〉の室内において、履歴書用紙の氏名欄に「甲田二郎」、生年月日欄に「41124」、現住所欄に「大分県中津市大字犬丸669-2」などと実際とは相違する記載をし、その名下に「甲田」と刻した右印鑑を押捺し、自己の顔写真を貼付して履歴書一枚を作成し、同月中旬ころ、これを同社総務課宛てに郵送して総務部長らに閲読させた上、同月二二日ころ、ホテルにおいて、右履歴書に基づいて右部長らによる面接を受けて即時ホテル接客係として採用され、翌二三日から平成八年八月三一日までの間、ホテルで稼働して月額約二〇万円の収入を得、その間の平成八年四月前後ころ、二回にわたり現金各一〇万円を前記〈住所〉に送金した。

(2) 被告人は、右ホテル側から約一年の勤務を終えたので正社員になるように誘われたが、正社員になると雇用保険への加入が必要となり、これにより偽名の使用が発覚するおそれがあったことなどから、平成八年八月三一日、ホテルを退社して再就職先を探し始め、同年九月上旬ころ、北海道北見市の人材派遣業であるB株式会社に電話をして就労先のあっせんを依頼したところ、担当職員から履歴書持参の上面接を受けるよう指示されたため、前記Aホテルの寮において、北見市内で購入した履歴書用紙の氏名欄に「甲田二郎」、生年月日欄に「昭和41 1 24」などと実際とは相異する記載をし、その名下に「甲田」と刻した前記印鑑を押捺し、自己の顔写真を貼付して履歴書一枚を作成し、同月末ころ、同社内でこれをオフィス所長に提出し、所長から石川県下の電気会社で働く気があればB株式会社金沢営業所を紹介する旨言われ、同年一〇月中旬ころ、その紹介方を依頼した。

(3) 被告人は、平成八年一〇月二一日、右紹介に基づき金沢市所在のB株式会社金沢営業所に赴いて同営業所労務担当社員の面接を受けた際、雇用契約書用紙の氏名欄に「甲田二郎」、生年月日欄に「41 1 24」、現住所欄に「大分県中津市大字犬丸669-2」、労働者欄に「甲田二郎」などと、賃金控除に関する同意書用紙の労働者欄に「甲田二郎」などと、給与振込依頼書用紙の氏名欄に「甲田二郎」などとそれぞれ実際とは相異する記載をし、その各名下に「甲田」と刻した前記印鑑を押捺し、雇用契約書、賃金控除に関する同意書及び給与振込依頼書各一枚をそれぞれ作成してその場で同人に一括提出し、同日付けで従業員に採用され、同月二三日から同年一二月一一日前記爆発物取締罰則違反容疑で通常逮捕されるまでの間、石川県能美郡のC株式会社において液晶パネル検査作業員として稼働して月額約二七万円の収入を得、その間の同年一一月ころ、現金一五万円を前記〈住所〉に送金した。

三  以上の事実関係を基礎とし、本件において私文書偽造罪、同行使罪が成立するか否かを判断する。

文書偽造罪は、私文書偽造罪を含め、文書の受領者その他の関係者が文書の名義人として認識するところとその作成者との間にそごを生じさせないようにすることによって文書の公共的信用を確保するためのものである。したがって、文書を偽造したか否かは、文書の名義人と作成者との間の人格の同一性を偽ったか否かにより判断されることになるが(最高裁昭和五九年二月一七日判決・刑集三八巻三号三三六頁、同平成五年一〇月五日決定・刑集四七巻八号七頁参照)、文書の名義人であると認識される者とその現実の作成者とが相異しているからといって直ちに右のそごを生じさせたと判断することはできず、そごを生じさせたと判断するに当たっては、文書の性質ないしは機能からみて文書に期待されていると認められる公共的信用の実体を考慮する必要がある。すなわち、作成者が名義人の名義を用いて文書を作成する権限を与えられていれば公共的信用を損なわないと解されるような文書の場合には、作成者にその権限があったか否かによりそごの有無を判断するのが相当であるのに対し、作成者本人が名義人本人であることを前提として作成される文書であるためその間の相異があることにより公共的信用が損なわれるような文書の場合には、氏名、生年月日等の人格を特定する事項から認識される名義人の人格が作成者本人を指し示しているか否かによりそごの有無を判断するのが相当である。

本件各文書を検討すると、前記(1)(2)の被告人が就職申込みの際提出した各履歴書は、作成者の身上、経歴等の事実を証明するための文書であり、氏名、生年月日、本籍、現住所、家族、経歴等の記載事項が作成者の本名その他の正確な記載事項であることを予定して作成される文書であり、実際にもそのような文書であると信用されることを予定して使用されたものであった。また、前記(3)の雇用契約書、賃金控除に関する同意書及び給与振込依頼書は、労働者の労働条件等の雇用関係に関する権利義務又は事実証明に関する文書であって、作成者本人の本名で作成されることが予定されており、実際にもそのような文書であると信用されることを予定して使用されたものであった。

しかるに、被告人の本名(戸籍上の氏名)は甲野太郎であり、生年月日は昭和三八年五月二一日であるのに、本件各文書の氏名欄には「甲田二郎」、生年月日欄には昭和四一年一月二四日と記載され、その他現住所欄(1(3)の文書)、経歴欄(1(2)の文書)などにも真実ではない記載がされている。そのため、これらの文書の名義人として認識される人格は、被告人本人の人格と全くそごすることになっている。被告人は、捜査機関によって自己の所在が把握されて逮捕されることを危惧し、かつ、指名手配されている甲野太郎であることを秘匿し、甲野太郎とは全くの他人である別の人間になりすまして就職するため、「甲田二郎」という架空の氏名を使用して本件各文書を作成し、雇用主側に提出したのであって、このこと自体本件各文書の名義人の人格と作成者の人格とを偽ったことを雄弁に物語っている。

所論は、本件各履歴書には被告人の顔写真が貼付されているから、文書から認識される名義人は顔写真の主である被告人として特定されると主張するが、それだけでは履歴書の名義人が被告人本人を指し示すものとして十分であるとはいえない。

また、所論は、被告人には本件各文書から生ずる責任を免れようとする意思はなかったから偽造にはならないと主張するが、本件各文書の性質ないしは機能に照らすと、被告人に責任を免れる意思があったか否かを問わず、文書の公共的信用が損なわれているばかりか、偽名を用いて自己の真の身元を秘匿している場合には文書の内容に責任を負う主体が存在しているともいえない。

以上のとおり、本件各行為について私文書偽造罪、同行使罪の成立を認めた原判決に事実誤認及び法令適用の誤りはない。論旨は理由がない。

四  よって、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却し、当審における訴訟費用は同法一八一条一項ただし書を適用して被告人に負担させないこととし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 香城敏麿 裁判官 平谷正弘 裁判官 佐藤公美)

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